床 つゆ雲のすそをほぐして夕明かり 宗離句
花 浜木綿 半夏生
木曜のお稽古では、宇井さんが和菓子の教室で作られたという生菓子を2種、持って来て下さいました。
見た目にも美しく、味も美味しく、
皆大喜びで頂戴しました。
また、木曜の方々にはお稽古を早めに終え、
神奈川県立歴史博物館へ勉強に行って頂きました。
鈴木容子さんに詳しくレポートを書いて頂きましたので、
下に有難く掲載させて頂きます。
特別展『中世東国の茶』
6月18日(木)お稽古を早めに切り上げ、
神奈川県立歴史博物館、特別展に行ってきました。
テーマは『中世東国の茶』―武家の都鎌倉における茶の文化―
参加者=宇井、森、布川、西沢、渋谷、後藤、新庄、鈴木(容)
中国の食文化の中で、茶は養生の飲み物として定着していた。
日本にこの茶がわたってきたのは八世紀、遣唐使が煎茶を供物として移入したが、
一時廃れていたようだ。
これを再び取り入れたのが、臨済宗の開祖である栄西であった。
元々、茶は儀式や供養のための飲み物として使われていた。
栄西は日本で最初の茶書『喫茶養生記』を書き、茶を健康のため服用するよう勧めている。
『吾妻鏡』には、源実朝が体調を崩したので、栄西が病気平癒の加持を行い、
養生の薬として茶を飲ませたことが記されている。
武士は戦場でも茶を服用していたと記録されている。
鎌倉ではまだ茶の生産が始まっていなかったので、茶は京都・奈良から調達した。
鎌倉への輸送手段として唐物(高級輸入陶磁)の容器が記録されている。
後に贈答用に唐物に詰めた茶が活発にやり取りされるようになる。
鎌倉の武家社会で、茶は贈答品として使用された。
茶の進物、贈答儀礼はより高価なものを送る方が上位とされ、
器から中身を含めた総体の価値で進物が判断されるようになった。
称名寺の裏山に茶園を作りたいので、茶の実を分けてほしいとの栄西の書状が残されている。
実生からの栽培であるので、時間がかかったと思われる。
鎌倉時代は、抹茶の印象が強いが煎じ茶から抹茶へは、時間を要した。
密教では、茶を供物として献じた。
真言密教では白の器、禅宗では黒の器が使われていた。
抹茶は少人数で私的なものとして広まっていった。多くの人が集まる儀式では鎌倉時代は、
煎じ茶が用いられた。
後に茶の銘柄を当てる遊戯として『闘茶』が盛んになった。
『闘茶』が盛んになると、家や山、舟などを賭ける者が多く出たため、禁止令が出された。
残された多くの文書の中には、茶の注文、返礼などがあった。
多くの古文書は難解で、学芸員さんの解説がなくては判読できないが、
お礼の文書が数多く残されており、茶が大切に扱われていたのがわかった。
闘茶に使用された闘茶表の実物を見たが、『茶かぶき』同様、ガテンのしるしがあり、
時を超えて広がるお茶の世界も、親しみをもって見学することができた。
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