11/21 喜左衛門

 

根津美術館で特別展『井戸茶碗 戦国武将が憧れたうつわ』
を見てきました。

 

展のメインは何と言っても「喜左衛門」。

日本の国宝の茶盌は8つありますが

その中でも侘び茶を体現している最高峰の茶盌と言われています。

 

所有した人物が次々と腫物にたたられたという曰く付きの盌。

 

実際拝見してみると

歪みがあったり木の葉の形のような景色があったり、腫物のようなものがあったり。

見込みは琵琶色の肌に黒い染みが奥行きを作っていたり。

大小様々に変化の富んだ梅花皮だったり。

 

それはそれは見所が沢山あって飽きないのですが

それらが全て無作為であるところが最高峰と言われる所以でしょう。

 

どんなに同じような風情を作ろうと思っても(そう思った時点で)

絶対に辿り着くことが出来ない高みにある一盌は

見るほどに魅入られる。

私自身、集中しすぎて思わず動悸がするほどの魔力を感じたのは

腫物の逸話のせいでしょうか。

 

この茶盌について、柳宗悦による考察が大変興味深かったので載せておきます。

 

 

大名物 国宝  喜左衛門井戸

「いい茶碗だ─だが何という平凡極まるものだ」、私は即座にそう心に叫んだ。平凡というのは「当たり前なもの」という意味である。「世にも簡単な茶碗」、そういうより仕方がない。どこを捜すもおそらくこれ以上平易な器物はない。平々坦々たる姿である。何一つ飾りがあるわけではない。何一つ企みがあるわけではない。尋常これに過ぎたものとてはない。凡々たる品物である。

 それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が普段ざらに使う茶碗である。全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。作る者は卑下して作ったのである。個性など誇るどころではない。使う者は無造作に使ったのである。自慢などして買った品ではない。誰でも作れるもの、誰にだってできたもの、誰にも買えたもの、その地方のどこででも得られたもの、いつでも買えたもの、それがこの茶碗のもつありのままな性質である。

 それは平凡極まるものである。土は裏手の山から掘り出したのである。釉は炉からとってきた灰である。轆轤は心がゆるんでいるのである。形に面倒は要らないのである。数が沢山できた品である。仕事は早いのである。削りは荒っぽいのである。手はよごれたままである。釉をこぼして高台にたらしてしまったのである。室は暗いのである。職人は文盲なのである。窯はみすぼらしいのである。焼き方は乱暴なのである。引っ付きがあるのである。だがそんなことにこだわっていないのである。またいられないのである。安ものである。誰だってそれに夢なんか見ていないのである。こんな仕事して食うのは止めたいのである。焼物は下賤な人間のすることにきまっていたのである。ほとんど消費物なのである。台所で使われたのである。相手は土百姓である。盛られるのは色の白い米ではない。使った後ろくそっぽ洗われもしないのである。朝鮮の田舎を旅したら、誰だってこの光景に出会うのである。これほどざらにある当り前な品物はない。これがまがいもない天下の名器「大名物」の正体である。

 だがそれでいいのである。それだからいいのである。それでこそいいのである。そう私は読者にいい直そう。坦々として波瀾のないもの、企みのないもの、邪気のないもの、素直なもの、自然なもの、無心なもの、奢らないもの、誇らないもの、それが美しくなくして何であろうか。謙るもの、質素なもの、飾らないもの、それは当然人間の敬愛を受けていいのである。

 それに何にも増して健全である。用途のために、働くために造られたのである。それも普段使いにとて売られる品である。病弱では用に適わない。自ら丈夫な体が必要とされる。そこに見られる健康さは用から生まれた賜物である。平凡な実用こそ、作物に健全な美を保証する。

 「そこには病に罹る機縁がない」と、そういう方が正しい。なぜなら貧乏人が毎日使う平凡な飯茶碗である。一々凝っては作らない、それ故技巧の病いが入る時間がないのである。それは美を論じつつ作られた品ではない、それ故意識の毒に罹る場合がないのである。それは甘い夢が産み出す品ではない、それ故感傷の遊戯に陥ることがないのである。それは神経の興奮から出てくるのではない。それ故変態に傾く素因をもたないのである。それは単純な目的のもとにできるのである。それ故華美な世界からは遠のくのである。なぜこの平易な茶碗がかくも美しいか。それは実に平易たるそのことから生まれてくる必然の結果なのである。

 非凡を好む人々は、「平易」から生まれてくる美を承知しない。それは消極的に生まれた美に過ぎないという。美を積極的に作ることこそ吾々の務めであると考える。だが事実は不思議である。いかなる人為からできた茶碗も、この「井戸」を越え得たものがないではないか。そうしてすべての美しき茶碗は自然に従順だったもののみである。作為よりも自然が一層驚くべき結果を産む。詳しい人智も自然の叡智の前にはなお愚かだと見える。「平易」の世界から何故美が生まれるか、それは畢竟「自然さ」があるからである。

 自然なものは健康である。美にいろいろあろうとも、健康に勝る美はあり得ない。なぜなら健康は常態だからである。最も自然な姿だからである。人々はかかる場合を「無事」といい、「無難」といい、「平安」といい、また「息災」という。禅語にも「至道無難」というが、難なき状態より讃うべきものはない。そこには波瀾がないからである。静穏の美こそ最後の美である。『臨済録』にいう、「無事は是れ貴人、造作することなかれ」と。

 何故「喜左衛門井戸」が美しいか、それは「無事」だからである。「造作したところがない」からである。孤篷庵禅庵にこそ、あの「井戸」の茶碗は相応しい。見る者に向かって常にこの一公案を投げるからである。
 
柳宗悦『茶と美』「喜左衛門井戸」を見る より