2013年

7月

01日

手製和菓子帖(其の十三)―創作水無月―

昨年に続き、今年も水無月を作りました。

 

あまり小豆がぎっしりと敷き詰められているものは

砂利のように見えて美しくないということで

(詳しくは手製和菓子帖(其の三)をご覧下さい)

今年も小豆の量は控えめに。

 

三角は氷を見立てているということで、涼感を出すために

二層の上部に寒天(アガー)を使いました。

 

下層は加熱して固め、上層は冷やして固めるという性質のものを選択してしまったので

程よく固めるのに苦労しました。

 

もう少し下が固くても良かったですね。

 

このお菓子だけは毎年作ろうと考えているので、

来年はより良いものをお出しできるよう精進致します。

 

 

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2013年

7月

01日

6/27_29  落花流水送

床 落花流水送

花 虎の尾 紫陽花 糸芒

花入 槍の鞘 小間 加茂川

香盒 舟人物蒔絵 大真

 

 

お稽古は今週、来週と短冊箱です。

 

 

禅語は、「落花流水を送る」

 

花は流される為に散ったのではなく、

川は花を運ぶ為に流れているのではありません。

互いに相手から頼まれたわけでもなく、

どちらも恩をきせるわけでもありません。

双方とも自分の仕事を無心に全うしているからこそ

この図は美しいという禅語です。

 

(今回この言葉を書かれた松井さんの解説文より)

 

 

「こちらはこれだけのことをやったのにお礼がない。」

「こんなに尽しているのに見返りがない。」

 

そのような不平が頭をかすめる時。

恩着せがましくなっている自分は美しくありません。

 

それは想像も容易なのですが、逆が厄介です。

 

 

「たいそうなものを頂いてしまった。急いでお礼を送らなくては。」

「こんなに親切にして頂いたのだからそれ相応のお返しをしなくては。」

 

よくありがちな光景ですが、

そのように返されたものは自然ではなく、やはり美しくないのです。

 

「そんなつもりで(見返りを求めて)善意を送ったのではないのに…」

と、相手を困惑させる結果となります。

 

私自身もよくこういう行動をとってしまうことがあります。

今回反省させられました。

 

 

相手の喜ぶ、喜ばないに関わらず、その善意は自分が勝手に動いたこと。

無心の結果です。

 

仕事でも友人関係でもそれは同じこと。

 

花と水の関係のように、

清々しい間柄でいたいものですね。

 

 

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2013年

6月

24日

6/22 浜松

22日。社中7名で浜松に行ってきました。

 

 

かつて、京都の都から近い琵琶湖を近江、遠い浜名湖を遠江と呼んでいました。

その地域一体は遠の州。

現在でも遠州の名はあちこちに残っています。

 

 

因みに、この地で普請奉行として、駿府城修築の功により、

従五位下遠江守に任じられたのが、小堀遠州です。

遠州という通称はその官位からきたものだったのです。

 

その小堀遠州作で、東海一の名園と言われるのが龍潭寺庭園。

訪れてみると、庭園そのものの美しさは勿論、

前庭の沙羅双樹や紫陽花等の花々等、どれも見事でした。

 

 

続いて訪れたのが方広寺。

  

司馬遼太郎が「江戸時代の禅風をつたえる最後の人」と書いた足利紫山。

紫山が官長を務めたのが方広寺でした。

 

方広寺を開山されたのは無文元選禅師。

後醍醐天皇の皇子でいらっしゃいます。

禅師が中国より船で帰国の折に禅師を慕い、共に日本に渡った鼻の高い異人は、

お寺を守る天狗様の鎮守として祀られていました。

 

広い境内には天狗の団扇のマークを胸につけたボランティアの方が沢山いらっしゃいました。

山鰻の精進料理、御写経の後、そのボランティアの方の説明を受けました。

 

80を過ぎたその方はお寺のことを何でもご存じで、

生前の紫山老師とご自身の関わりについて、逸話をいくつも教えて下さいました。 

 

開山堂の扁額は紫山老師のお筆。

傍には老師の銅像もありました。

 

 

帰りの浜松駅では、号外が配られていました。

富士山が世界文化遺産に登録という慶事の誇らしげな空気を土産に、帰途に就きました。

 

 

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2013年

6月

17日

6/16_偲ぶ会

6月16日、目黒雅叙園にて、

先日亡くなられた小林宗離さんを偲ぶ会が行われました。

乙亥会は、添え釜をさせて頂きました。

 

 

 

宗離さんのお道具

一、青磁薄氷香炉 水上焼 葵釡 井上寿博 

  奥利根の長石と粘土にて

一、白磁花瓶 井上寿博

一、郡上茶盌 伸

一、六歌仙蒔絵棗 輪島塗 長井幸夫

一、うふふふ徳利 彩磁 一三

一、水注

 

 

釜 風炉切合

水壷 ヤンリーパオ

棗 遠山蒔絵 替 沙羅樹図

茶盌 十牛図 まどか先生より

替 銘々持参

数 十牛図 建二

茶杓 八重桜にて 川合さんより

蓋置 「昏色」修善寺彫 五十一年松琴

   宗離さんとの出会いの旅の地

建水 えふご 信楽

菓子 胡蝶 太市

茶 小倉山 小山園

 

 

祭壇には宗離さんが生前に愛用されていた、思い出のお道具。

 

私共、乙亥会では

当日出席させて頂いた社中が、各自この日に相応しいと考えた茶盌を一つずつ持ち寄り、

宗離さんへの気持ちや、思い出等、お客様と語らうことが出来ました。

また、連句の先生であられる旦那様、静司先生に、それぞれ宗離さんとの思い出を社中がまとめた文集を

お渡しさせて頂きました。

 

お菓子は今回初めて、目黒区の太市にお願いしました。

亡くなった方の魂、神の使いと言われる胡蝶。

干菓子とは思えないほど口当たりが瑞々しく、品の良い甘さに皆様喜ばれていました。

静司先生が一句読んで下さいました。

 

魂を運ぶや蝶の色ましろ

 

 

静司先生も羽織袴を、娘さんと、二人のお嫁さんも宗離さんのお着物を着られていました。

三枚のお着物は、宗離さんの雰囲気そのままの上品な色あいで、

それでいてお三人がそれぞれ誂えたかのようにとてもよくお似合いでした。

宗離さんもさぞ喜ばれたことと思います。

 

 

お席の数が少なくて、皆様全員にお茶を差し上げられなかった反省がありますが

病気が分かってからお亡くなりになるまで1か月にも満たず、お別れを言えずにいたのを

当日、お若いころの写真を拝見したり色々な方のお話を伺ったりしながら

1日かけて、ゆっくりとお別れをすることが出来たと母は申していました。

 

 

乙亥会としてはまだまだ至らぬところばかりですが、

これからも宗離さんの面影に助けて頂きながら前進していきたいと考えております。

 

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2013年

6月

11日

6/8 Luciola cruciata

土曜はお稽古の後、三渓園へ蛍を見に行ってきました。

蛍を見られるのは暗くなってからなので、

その前に三溪園のそばの隣花苑でお食事を。

 

原三溪の孫にあたる方がはじめられ、今はそのお子様が受け継がれています。

床には原三溪が描いた花菖蒲の絵。

器にも花菖蒲が描かれたものが使われ、自然とその後の三溪園への期待が高まりました。

 

お食事は、お庭で育てられた野菜や、食通であった三溪が考案した「三溪そば」等、

上品なお味を堪能致しました。

 

まだ暗くならない内に食事を終え、娘を浴衣に着替えさせると三溪園に向かいました。

 

隣花苑の絵の通り、花菖蒲が満開で、とても優雅な風景。

蛍が見られるという奥の渓流へと足を進めると、

既に多くの人で賑わっていました。

 

やがて辺りが暗くなると一つ二つ、次第に光を見つけ、
7~8匹は一度に見られたでしょうか。

娘も「ほー、ほー」と嬉しそうに指をさしていました。

 

家族でたっぷりと鑑賞した後、
渓流を後にすると、
そこにはこれから蛍を見る為の、あまりにも長い行列が。

蛍を見るということはこれ程までに大ごとになってしまったのですね。

 

蛍が住みにくくなったのは、単純に水質だけの問題でもなく

川の護岸工事や街灯等様々な要因によるものです。

 

近年は蛍の保護、人工飼育等の活動も活発になっていますが、

本来その場にいたものと違う地域の蛍を放つと、それまでいた種が負け、いなくなってしまうという問題もあるのだとか。

 

 

今あるものを維持し続けるだけでも大変な労力を要するものですが

消えつつあるものを戻す作業はそれと比較にならない程の、

自然の流れに抗うだけの莫大なエネルギーが必要です。

 

 

それでも

蛍雪の功…は難しくても

「庭に咲いてるホタルブクロに蛍が入って…」

のような会話をしてみたいと、夢を見ずにはいられません。

 

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2013年

6月

11日

6/6_8 Rouge et Noir

床 臥薪嘗胆

 

 

今週のお稽古では、姫沙羅を使い、皆でお花を入れる練習をしました。

葉や花がびっしりとついている状態から、

いかにその数を減らし、楚々とした、爽やかな枝振りにすることができるか。

 

皆様大変熱心に取り組まれていました。

同じ花材、同じ作業でも、

出来上がった作品は正統派や、モダン、若々しさに溢れるものなど、

やはりそれぞれの性格が表れていました。

 

 

 

又、お昼は利休の言葉についても学びました。

「赤ハ雑ナル心ナリ 黒ハ古キ心ナリ」

 

この有名な言葉ですが、近年、熊倉功夫氏の

『「雑」ではなく「新」と読む』という説が注目されています。

 

私も、「雑ナル心」と聞いていたころは

よっぽど秀吉を批判したかったのだろう、くらいにしか思いませんでしたが、

「新ナル心」であれば至極当然、納得できます。

 

 

新しい生命のことを、我々日本人は

「赤ちゃん」

と呼びます。

 

赤ん坊でも赤子でも同じです。

「黄ちゃん」や「青子」ではいけないのです。

 

 

私達人間の身体を流れる血液。

鮮血と呼ばれる新しい血は明るい赤色をしており、古くなると酸化し、黒くなります。

 

皮膚の薄い赤ちゃんが力いっぱい泣くと全身が真っ赤になります。

赤は、漲る生命力の色です。

 

 

それに対し、黒は、全てを吸収する色です。

はじめは鮮やかな色をしていたものも、時間とともに、酸素や、光や、色々な物質を吸収することによって黒味を帯びてきます。

竹や、紙、その他の木材も、長年使い込むと色が濃くなり、味わいが生まれます。

 

黒に近づくことは多くの時間を経験してきた証。

 

黒は歴史の色。

 

夜空の黒には何億光年という時の流れが内包されているのです。

 

 

 

因みに、

私自身が考えを深めたい為

今年の年頭の言葉として黒について考えたものを、

下に載せておこうと思います。

 

黒と向き合う                   川原宗敦

 

三原色といえば、赤・青・黄。そう教わってきました。

赤・青・緑という光の三原色の存在を初めて聞いた時は

「パソコンやテレビのようなデジタルの掟だろう。アナログでは黄色と青を混ぜて緑にするのだ」と斜に構えていました。

それは大きな誤りでした。

 

 洋服を試着した時に素敵な色味だと思って買ったものが、家で着てみるとなんだか印象が合わない…ということはよくあるものです。

 これはお店と家の照明が異なる為に起きる現象で、色が光に依存していることが身近に分かる例です。

 白いTシャツも赤い光を当てれば赤いTシャツに見えます。

 現代ではデザイナー等により使い分けられる色の種類が1万色以上あるそうですが、蛍やヒカリゴケのような自ら発光する特殊な例を除いて、物が何色に見えるかは周りの光次第であり、私たちは当てられた光を法則に従って反射・吸収(或いは透過)しているだけに過ぎないのです。

 

 ですから、「自分が周りからどう見えているか」などという問いはあまり意味がありません。

 例えば真夏の太陽の下では明るく見えるし、映画館の中では暗く見える、周りの状況次第なのですから。

 

裏を返せば、光を当てられなければ、人も花も、大雪原も、大海原も、夜空と同じ。ただの黒です。宇宙は元々黒なのです。

色が氾濫する現代。夜できるだけ部屋を暗くし、色から解放されると、心が落ち着きます。私も黒。隣で小さな寝息を立てる娘も黒。

 

黒は色の無い色。それでいて、全ての色を吸収する色。そして、宇宙の色。

そうであれば、利休の見出した黒楽茶碗は黒だから良いというより、黒でなければ意味がないように思います。

それを我々が美しいと思うのはあくまで結果論ではないでしょうか。

つまり、利休は美しいものを作ろうとしたのではなく、ただ己の真理を突き詰めた完成系が美しかったということなのだと思います。

 

私自身、日常生活ではつい美しいものに魅かれ、美しいものを追いがちです。

しかし茶道と対峙している時くらいは美しさを求める心から離れなくてはと考えています。

夜咄で簡単に実感できる通り、所詮全ては黒なのですから。

その代わり、自然のリズム、宇宙の理を求めていきたいものです。

そしてその結果として、美しさがついてくるのが理想であります。

 

二〇一三年一月 

 

 

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2013年

6月

03日

5/30_6/1 花の式

床 「芦葉達磨」廓然無聖 法谷文雅 自画賛

花 時のもの

花入 青磁  梶田厚

香盒 屈輪紋 根来香盒 土居義峰 

風炉先 仿古小屏風 

水指 古水次

茶器 丹波焼 胴塚手 陶谷

   「東都に赴き給ふ折ニ」吉水正

袋 唐華唐草鱗紋

棗 ひさご

茶盌 粉引 水野双鶴

   練込み「川」昭和43年御題 水野双鶴

   刷毛目 水野寿山

   赤膚焼 尾西楽斉

   京焼「海」昭和52年御題

茶杓 銘「好日」大橋香林 宗仙

建水 蹴毬 哲匠

蓋置 練込み 水野双鶴

菓子器 焼締め 梶田厚

    黄瀬戸

主菓子 彩むらさき

干菓子器 青漆四方盆 清閑院

     塗四方皿 丸皿 岡本漆専堂

干菓子 おちょぼ 万年堂

    加勢以多(かせいた) 古今伝授の間 香梅

濃茶 雲鶴 小山園

薄茶 和光 小山園

寄付 煎茶道具

点心 社中持寄り 信玄弁当

酒 湘南 熊澤酒造

 

 

 

 

芦葉達磨について。

インドの高僧である菩提達磨は6世紀の初め梁の武帝の時、中国に禅宗を伝えました。

その際達磨は一片の芦の葉に乗り、揚子江を渡ったといわれています。

これを絵画化したものを一般に芦葉達磨とよび、禅宗の発展とともに中国日本を通じて盛んに描かれたそうです。

 

 

 

花の式も20回目になりました。

今回は、亭主の梶田さんが庵名宗名の許された際に乙亥会の皆様から頂いたお道具の披露となりました。

そして、日本陶芸倶楽部に所属されている旦那様の作られた花入と菓子器。

ご夫婦のお母様が共に茶道を嗜まれていたとのことで、それぞれから受け継がれたお道具。

 

旦那様の感性や、ご夫婦の家の好みから、ご亭主のことをあまり知らない方でもその人柄が伝わってくるような、

どれもご亭主らしいお心入れの数々でした。

 

そして、そういったお道具の説明や段取りもとても自然に、落ち着いた雰囲気で務められ、

貫録も感じられました。

 

花の式では、毎回ご亭主に選ばれた方は大変な思いをしてご準備をされるのですが、

一座がそれぞれのお道具のご紹介を受けることで

お道具一つ一つのドラマを知り、それを通じてご亭主の人生にぐっと迫ることが出来ます。

それが花の式の何よりの魅力であると思います。

それを20回も続けてこられたのもひとえに皆様のご努力とご協力の賜物です。

   

信玄弁当もとても美味しかったですね。

 

節目の回として相応しい花の式でした。 

 

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2013年

5月

27日

手製和菓子帖(其の十二)―花梨羊羹―

花梨の砂糖漬けを頂いたので、粒餡を用いた羊羹を作りました。

 

あまり花梨が主張すると好き嫌いが出ると思い、

少し花梨の量を控えめにしました。

 

その結果

食べているときは普通の羊羹とあまり変わらないのですが、

後味はスッとした清涼感を残し、小豆と砂糖の甘味を引きずらない。

 

手前味噌ながらちょうどいい塩梅になったような気がします。

 

花梨は和菓子の材料としてなかなか好適であるように思いました。

 

 

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2013年

5月

27日

5/20_22 joan

床 吹毛常磨

花 瓔珞アナナス 常盤露草 七竈

花入 鵜籠

香盒 筏 青楓蒔絵

紙釡敷 「水」

 

 

お稽古では織田有楽について取り上げました。

戦国史としての織田有楽はあまり良いイメージで描かれないことが多いように思いますが、

茶道史では言わずと知れた重要人物。調べるほどに興味が湧く奥深さがあります。

ですから人物像に迫るときりがないので、今回は如庵にフォーカスしてみようと思います。

 

 

国宝の茶室は3つしかありません。

「妙喜庵待庵」、京都市の「龍光院密庵席(小堀遠州)」、そして織田有楽の「如庵」です。

 

 

徳川家光から

 

「徳川の繁栄はこの如庵から始まったと聞いている」

 

と言わしめたという逸話のある如庵。

 

織田有楽と徳川家康は幼馴染であったと言われていますが

この庵を通じて家康と有楽の間に深い繋がりがあったことが窺えます。

 

 

如庵の魅力については、

まず如庵四景という言葉があります。

 

如庵の中で特に美しいものを称えた言葉で、

左女ケ井、釜山海の手水鉢、有楽竹、如庵の室のことをいいます。

 

村田珠光が堀った京都醒ヶ井五条にある「佐女牛井」にちなんで名付けられた左女ケ井からは、

名水を探るべく数多くの井戸を掘っていたという、水に対する並々ならぬ拘りを。

 

加藤清正の朝鮮土産である手水鉢と

有楽が信長から特命を受けた天正七年の文字が見られる前石からは、

石屋から石を買い占める程、石にも関心の高かったという美意識の片鱗を垣間見ることが出来ます。 

 

又、有楽は竹を特に好み、茶室の用材として巧みに活用しておりましたが、

本人の名前のつく程庭に多用しているのは、

笹の触れる「カサカサ」という音、

そして風の吹いた時に竹同士がぶつかって鳴る「コンコン」という音

これを愛でたとされています。

竹を、茶室のBGMとして捉えていたのですね。

 

そして如庵そのものですが、

一番の特徴は、やはり「有楽窓」でしょう。

竹を敷き詰めて作られた窓ですが

竹の節の隙間から光が入り、縞模様を作るであろうことは想像がつきますが、

どうやらこの窓の効果はそれほど単純なものではないようです。

 

この有楽窓、建築の世界では「虹窓」として知られているそうですが

 

有楽窓(うらくまど)は外部環境、たとえば青空、竹林、地表を投影

する光が竹の合間を通り過ぎるときに横方向に分解される現象を取り入れたもので、その細い隙間

から入る稿は分光された、影というよりまさに虹のように発色する現象を取り入れたものです。

…中略

西洋で「光の分散」を発見したのはイギリス人のニュートンで

一六六六年のことです。彼は太陽光線がガラスのプリズムを通ると屈折率の差によって赤から紫に至る

たくさんの成分に分けられることを発見しましたが、有楽の場合は竹を引き詰めて間から漏れる光の屈折で虹をつくりました。

 

如庵と織田有楽より

 

 

何と。

 

竹によって光がどの程度分解されるか私は見たことがありませんが、

茶室の中に微かでも色の異なる光が差し込んでいたとしたら。

 

それはどれほど神々しく、心の洗われるものだったでしょう。

 

利休は黒を追及することにより

壁も光を吸い込み、宇宙のような庵を作り出したのに対し、

 

有楽は壁にも紙を貼り、光を利用する、清々しい庵を作り出したのです。

 

 

先に引用したページを書かれた方は

利休の茶は「仏道」の茶、有楽の茶は「神」の茶であると思う、と言われています。

 

キリスト教の洗礼を受けており、庵にもその名を用いた織田有楽斉ジョアン。

 

その宗教思想、哲学から茶人としての美意識の全てを集結させた、

 

如庵は正に最高傑作に違いありません。

 

 

 

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2013年

5月

13日

5/9_11 to be free from all bias

床 青山緑水 泰道老師

花 茉莉花 小判草 チリあやめ

花入 網代四方籠

香盒 南瓜 タイ製

寄付 国宝 杜若 尾形光琳

 

 

5月に入り、炉から風炉へと切り替わりました。

木曜はとても清々しい気候であった為、外で茶箱のお稽古をしました。

この季節になると木々の緑がとても力強く、圧倒されるようです。

 

 

「青山緑水」

 

5月の禅語としてよく用いられます。

 

意味はそのまま、雄大な自然を言ったものです。

とてもイメージのしやすい言葉です。

 

個人的に、茶道で好まれる禅語には

「八角磨盤空裏走」のように、言葉を聞いても何のことやらさっぱり意味の分からない、

難解なものも多いですが

 

一方で

一般の人なら「だから?」と聞きたくなるような

当たり前のことを言っているものも、難しいものと同じくらい沢山あるように思います。

 

今回のものは当然後者ですね。

 

一見、「美しい5月の風景」の一言で片づけられそうな言葉です。

 

ただ、今勉強している禅の本によると

悟りを開くと、先入観から解放されるのだそうです。

その結果、身の回りの全てが初めて経験するように新鮮に映るのだとか。

 

自分の周りには青々とした木々が覆う山、そしてその緑の間を流れる水の輝き

 

それを生まれて初めて見たとしたら、どれ程感動するでしょうか。

身の回りの世界が、どれほど輝いて見えるでしょう。 

 

 

私自身、1歳8か月の娘と散歩をしていると、

蝸牛を見つけたり、たんぽぽの綿毛が飛んだり、

小さなことで目をキラキラさせて目一杯喜ぶ姿を目にします。

 

 

私たちは日々生活の中で知恵をつけ、

人生を積み重ねた人程それは豊富であるのが通常ですが

たまにはそうした経験則を取っ払ってありのままの自然と対峙できたら、理想ですね。 

 

 

 

*因みに「青山緑水」には前後に様々な言葉がついて別の意味合いを持つものもあるのですが、

今回はあくまでこの4字のみを掘り下げてみました。

 

 

 

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2013年

5月

12日

4/25_27 no leftover

床 山花開似錦

 

GW前のお稽古では2週続けて茶飯釡を行いました。

 

 

炭の置き方に気を配り

火吹き竹で火勢を強め

初めはプシュプシュ…次第にパチパチという音に耳を澄まし

 

一座が皆、「ご飯が美味しく炊けます様に」という思いを共有して

待つ時間は楽しいものですね。

今回の禅語を書かれた方が、お釜を見守る様子が子供を見ているようだと言われていました。

 

農家の方は、育てる野菜を我が子のように思うという話はよく聞きますが、

頂く側もそれを共有できることは大切なことのように思います。

 

現在日本は食料廃棄率がアメリカを抜いて世界一位、残飯大国などという不名誉な称号まで頂いているそうです。

 

茶道の懐石では茶飯釡に限らず、

食べ終わる頃に各自、器にお湯を入れ、

漬物で小さな食べ残しやご飯粒もきれいにこそいでお湯とともに飲み干します。

ですから片づける際にはご飯粒どころか、カスの一つも残らないのです。

 

それが料理を作った亭主、農家や漁師等一次産業の方々、そして何より食べ物に対する敬意です。

 

茶道を離れてもこの気持ちは絶対に忘れてはいけませんね。

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2013年

4月

22日

4/18_20

17日(水)

 

母が喜びを隠せないでいるのが分かりました。

恐らく、3cm程地面から浮いていたのではないか、

というくらい、ウキウキしていました。

 

それは

乙亥会発足からずっと共に茶道を嗜んできて、

18年の7月から療養の為お休みしていた、

宇井さんが明日のお稽古に見えると聞いたからです。

 

毎週ラブコールを送り続けてきた母にとって

この上なく嬉しい瞬間であったに違いありません。

 

もちろん私にとってもそれはビッグニュースでした。

明日はきっと忙しくなるからと、床の花を用意したりしました。

 

 

18日(木)

 

宇井さんが朝一番に見えました。

1時間かけて歩いて来て下さいました。

 

早速お茶を召し上がって頂きました。

非常に懐かしく、お茶を点てられることが嬉しくて、

茶筅を振る手にも熱がこもりました。

 

その後、母は宇井さんにお供茶の点前を指示しました。

ブランクがあると普通のお点前でも大変なのに、さらに複雑なお供茶を要求するとは…

母の無茶振りに「ひどい…」と笑いながらもお点前を始められたのです。

 

 

驚きました。

 

お点前の、あまりに自然な姿に。

何も覚えていないと言われていましたが、身体には浸み込んでいたのですね。

お客様として座られている姿は懐かしかったのに

お点前を見ていると、先週までもお稽古に来られいたのではないかと錯覚しそうな程で

「久しぶりだから…」などというこちらのフォローの言葉はもはや不要でした。

 

その後は皆さんで、宇井さんから折り紙の独楽を教えて頂いたり、

茶飯釜でお昼を食べたりと、それは和気あいあいとした、楽しい時間を過ごしました。

 

 

19日(金)

 

その夜、娘と寝ようとした時のことです。

 

娘がしきりに天井を指さすのです。

 

私は、「電気ね」「ドアかな」と娘が私に教えてくれるものを推測するのですが

娘は納得のいかない様子で、部屋の上の方を見つめていました。

 

 

 

 

20日(土)

 

朝、娘と居間へ降りると、丁度母が電話を受けているところでした。

動揺を隠せないでいるのが分かりました。

 

 

22年から3年間、お稽古に来られていた小林宗離さんが亡くなられました。

 

急性白血病でした。

 

入院されているのは存じ上げていて、良ければ1か月くらいで退院できると伺っていました。

ですから5月には、また元気なお顔を見せに来て下さると信じて疑いませんでした。

 

 

小林さんは旦那様が連句の会を主催されており、ご自身も嗜まれていました。

 

 

連句と茶道の関係について。 

 

茶道を大成したのは千利休ですが、その師は武野紹鴎。紹鴎の師が村田珠光です。

利休は珠光から禅の精神を、紹鴎から歌道・文学を学んだとされています。

武野紹鴎は自身が連歌師であり、掛物に和歌を用いるのも紹鴎が始まりです。

日本において歌道は禅よりも古くから存在しており、中世以降の芸術全ては歌道の影響を受けています。

 

つまり

インド、中国を経て日本に伝わった禅宗の深い精神性に、

日本古来の歌道の豊かな表現力が合わさったものが茶道だと考えることが出来ます。

 

さらに言えば

初めて茶道を体験された方がよく口にする

「心が落ち着く」という感想は珠光の側面

「日本の美しさ・良さを再発見」というものは紹鴎の側面と言えるかもしれません。

 

禅と歌道は茶道の両輪、いかに重要なものであるかが分かります。

 

小林さんは正に、その歌の道を私達に開いて下さいました。

いつもその豊富な語彙力から、美しい日本語を教えて下さいましたし、

小林さんがお仲間にならなければ、乙亥会で連句を巻くといった経験はできなかったでしょう。

 

また、お茶のお稽古においても非常に努力家でいらっしゃいましたし、

律儀な方でもありました。

ですから金曜の夜にわざわざ挨拶に来て下さったのですね。

 

お稽古に来て頂きながら、いつも教わることばかりでした。

これからも色々なことをご教授頂きたかっただけに本当に残念で、寂しい気持ちで一杯です。

 

 

土曜は鉄線のお花で、正客に座って頂きました。

 

これからも小林さんのお姿を糧に、茶道に精進していきます。

本当に有り難うございました。

 

 

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2013年

4月

15日

4/11_13 Ajuga decumbens

<広間>

著莪

紫華鬘

木通

覆輪蔓桔梗

姫小判

<小間>

春紫苑

鬼田平子

金瘡小草

覆輪蔓桔梗

姫小判

 

全て花の名前ですが、難読漢字クイズのようですね。

今回はこの中で、金瘡小草に注目してみました。

「キランソウ」です。

 

お稽古に出られた方は、「そんな花あったかしら?」と思われたかもしれません。

お稽古では、この花を別の名前で紹介しました。

 

 

「ジゴクノカマノフタ」

 

 

「地獄の釡の蓋」

 

です。

 

 

雑草としてどこにでも生えるこの草は、

茎や葉が地面を這うように伸び、一面を密に覆い、地面に蓋をするように見えるほどになります。

 

その光景は

「地獄の釡の蓋」

という表現が正にぴったりだと母も申していました。

 

だからといって、こんなにおどろおどろしいこんな名前をつけなくてもいいのに…と

個人的にはキランソウを不憫に思っていました。

 

 

ところが後日この草を調べると、別の側面が浮かび上がってきたのです。

 

 

このキランソウ、切傷、胃腸薬、風邪薬など、たいていの初期状態なら、何にでも効くという万能薬草なのだそうです。

「どくだみ」と肩を並べる和製ハーブの代表とまで言われているんだとか。

 

キランソウは、民間薬でありながら昔から知られており、

漢方薬の薬局でもキランソウの名で乾燥葉を販売しているそうです。

 

少し調べただけでも、かぶれのような皮膚炎から高血圧、リウマチまで薬効の幅広さに驚きました。

『キランソウ』 

 

 

 

「ジゴクノカマノフタ」という名前も
地獄の釜に蓋をして、病人をこの世に引き戻すことが由来という説が一番有力のようです。

他にも

「医者殺し」という別名もあるのだとか。

 

 

昔の人は、キランソウの地面を這う形状を釜の蓋に見立て、

病気で死んで地獄へ行こうとする人を、

万病に効くその優れた薬効で守ってくれる、

言い換えると「地獄の釜に蓋をしてくれる。」と考えたのですね。

 

一度聞いたら忘れないようなインパクトある名前

「地獄の釡の蓋」

とは、

何とも心強い、有り難い名前だったのです。

 

 

今まで「勝手に増える雑草」と思っていてごめんなさいと、

カメラを構えつつ謝りました。

 

正に、「雑草という名の草はない(昭和天皇)」ですね。

 

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2013年

4月

08日

4/4_6 Kerria japonica

床 柳緑花紅

花 山吹

花入 宮崎寒雉 十四代

香盒 大黒天 雅耕

水壷 阿蘭陀焼

棗 独楽継

茶盌 楽入

替 伊予 二六窯

茶杓 銘 不易流行

蓋置 五徳

寄付 卯月 剃髪や風がからかい日が笑う

   藍彩線紋茶盌 昭和六十三年 十代大樋長左衛門襲名記念

   同年四月 熊木照衍剃髪により

 

 

 

 

 

 

突然ですが、このキャラクター、誰だと思われますか?

 

 

 

 

 

 

このイラストを見ただけでピンときた方は歴史通ですね。

 

それではヒントです。

 

 

プロフィール

性別    おとこ
年齢    15歳(なまいきざかり)
身長    165.1cm
体重    54.2kg
血液型   不明(多分B型)
誕生日   11月18日(永年4年/1432年)
利腕    右
基本色   茶色、山吹色
特徴    いつでも反省できるよう、
      山吹を持っている
性格    お父さんには素直になれない
      あー言えば、こー言う
      内弁慶
趣味&特技  お城づくり、反省すること、
       鷹狩り、夢を見ること

 

川崎市報道発表資料より

 

 

 

 

分かりましたでしょうか。

川崎市幸区日吉地区のPRを担っている、このゆるキャラの名前は、

 

「どうかんクン」

 

というそうです。

 

江戸城を築いたことで知られる太田道灌ですね。

 

江戸城を立派に修復し、江戸を首都にまで発展させたのは徳川家康ですが、

その約百年前に、それまで辺境の地であった江戸の町を切り開いた道灌の働きがなければ

家康は他の地に幕府を開いていたかもしれない…

という程の重要人物です。

 

そして道灌でもう一つ有名なのが、

「山吹の里」伝説です。

 

 

 

ある日の事、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。

道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか。」と声をかけると、

思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきたのです。

そしてその少女が黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。

花の意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行ったのです。

その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が進み出て、

「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに

【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。

その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいました。
驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったといいます。

 

『太田道灌と山吹伝説』より

 

この逸話は落語『道灌』という題目があるほど有名です。

ちなみにゆるキャラのどうかんクンの頭に鷹が止まっているのもこのためですね。

 

もともと幼少期から聡明として知られる道灌。

この山吹伝説を経て歌道でもその才能を発揮していくこととなるのですが

当教室からも近い、小机で詠んだ歌についてのエピソードを紹介します。

 

1478年、小机城を責めることになった道灌。

小机城は守りが堅固、攻め手も少数であった為包囲は数十日に及びました。

味方が疲弊する中、道灌は

 

「小机は先ず手習いのはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる」

 

という戯れ歌を作り、

兵に歌わせ士気を鼓舞することで、これを攻め落とすことができたと言われています。

 

 

それにしても「上手い!」と思わず膝を叩きたくなるような歌ですね。

 

戦は負けなし、頭が良く、歌の名手、道灌。

彼の活躍は関東一円が主であったので、私たちの身近な場所、思いもよらぬ場所で

「太田道灌」の名前を見ることがあります。

「どうかんクン」のいる幸区夢見ヶ崎もそうですし、

鶴見区駒岡にも石碑があるそうです。

 

小机城址とともに訪れてみたくなりました。

 

 

 

(4/8 午後追記)

 

 

・・・

 

というわけで

 

 

行ってきました。

 

 

駒岡中郷市民の森・かぶと塚ふれあいの樹林

 

ここで兜塚伝説について紹介します。

 

太田道灌が「加瀬の台(現・川崎市幸区)」に城を築こうと、

ここで一夜を過ごした際、「一羽の白鷲が道灌の兜をさらって飛び去り、南西の地に落とす夢」を見ました。

道灌はそれを不吉として「加瀬の台」での築城を諦め、

この地を「夢見ヶ崎」と名付けるとともに、鷲が兜を落とした場所に自身の兜を埋めました。

その地が「兜塚」と呼ばれるようになったのです。

 

 

因みに先ほど紹介したどうかんクンはこの夢見ヶ崎をPRしています。

 

そして兜塚。

車では少々行き辛い場所にあるようで、

少し離れたところに車を置いたのですが

地元の子供たちが「ここからでも行けるよ」と道案内をしてくれました。

 

…が、小学生たちが軽々と進んでいくその道は

足場もほとんどない山の中を進む、文字通りの獣道。

60歳を超えた母と10kgの娘を抱っこした状態の私にはとてもハードでした。

 

でも、時折振り返りながら私たちを連れて行ってくれた親切な子たちのお蔭で、

無事、山の上にある兜塚にたどり着くことが出来ました。

 

インターネットで兜塚のことを調べた時はどれも白鷺に兜を持っていかれ…

と書かれていたのですが

石碑のそばにある案内には「鷲」となっていました。

どちらが本当なのでしょうか。

(復旧したギャラリーをご覧下さい。)

 

 

それにしてもまさかこんな家の近所に太田道灌の縁の地があるとは驚きです。

山吹のお蔭で充実した月曜日になりました。 

 

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